
このページは、お客様と一緒に行動する運転手、その運転手にデジタルカメラを持たせて、旅行先のちょっとした風景を写真に収めて、皆様に紹介するページです。
然る昨年12月某日HP作者は、このページで皆様に「旅行の楽しさを伝えたい!」と、いう目的のために作ったページでしたが・・・。
前回のページでは、旅行誌に乗っているような紹介をしてしまったことに気が付きました。
そこで、HP作者は考えた・・・。
普通の紹介では、せっかく見て頂いた皆様がガッカリすると考えました。そこで・・・
今まで、見てきた観光施設(城跡・公園など・・・)の影に隠れたスポットを紹介しょうと、考えました
そこで、今回から、このような隠れスポットを紹介します。
第2回 山口県萩市の巻
山口県の下関市に並ぶ有名な町、萩市、
ここは、関ヶ原の戦いに西軍の総大将として参加した(実際戦闘には参加していない)毛利元就(もうりもとなり)の孫の輝元(てるもと)が安芸(広島県)広島城から、ここに移ってきて石高(大名の収入源)120万石から36万石に減らされて、この地に居城(城主が住む城)を築きました。
それから250年あまりたった幕末、吉田松陰(よしだしょういん)と松下村塾の門下生の木戸考允(きどこういん)・高杉晋作(たかすきしんさく)・伊藤博文(いとうひろふみ)・山縣有朋(やまがたありとも)などを中心に江戸幕府を倒して明治維新の礎を築き、後者の2名は内閣総理大臣になりました。
@ 萩 城 跡
萩城は、萩藩藩租毛利輝元が関ヶ原の戦いに敗れ、領地を減らされて、自分の居城候補地として、防府(山口県防府市)・山口(山口県山口市)・萩の3ヵ所を選び、幕府の意向を伺って、萩の指月山山麓に築城することになりました。1,604年に着工し1,608年完成しました。以来、萩藩の中心地となります。
しかし、第13代藩主毛利敬親(たかちか)の時代、幕末の混乱で、「萩では、政務に支障をきたす」との理由で、山口(山口市)に藩府(藩の政治を行うところ県庁みたいなもの)を移すまで、毛利家三十六万石の居城でした。
天守閣・居館(大名の住居)は、明治7年に壊されました。
※マウスパットを写真に置くと写真が変わります
●萩城跡の中で発見したものがありました●
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1,853年6月 アメリカ合衆大統領の国書を持った、ペリー提督が浦賀に来航して、日本の開国を求めて来ました。その機会に外国の視察の目的で、アメリカの軍艦で密航を試みた人物がいました。吉田松陰です。
彼は、松下村塾(下の写真)にて、今からの日本の行く道を教えました。
A 松下村塾(松陰神社内)
松陰神社内にある、松下村塾です。
松陰神社は、明治23年頃、塾舎の改修と同時に、杉家(吉田松陰の実家、松陰は毛利家剣術師範の家柄である吉田家の養子に行っている)の邸内に内社を営んで英霊を鎮祀したのが始まり。
明治40年9月、「松陰神社維持会」の総裁に伊藤博文に迎えて、時の県知事に県社格の出願し同年10月に許可を得たものです。
●松陰神社の駐車場で見つけた石碑●
番外編 東光寺の上にあった、吉田松陰の銅像と松陰生家住居跡
吉田松陰の銅像
東光寺・・・、ここは、毛利家の菩提寺(藩主や藩主夫人のお墓のある寺)で、この東光寺は、3代藩主毛利吉就から11代までの奇数代の5人の藩主とその夫人および一族、関係者の墓がある。
その東光寺のすぐ隣の小高い山に、吉田松陰のお墓や、明治維新の礎となった人々のお墓と、吉田松陰の銅像と松陰生家の住居跡を発見しました。
この銅像の隣に杉家(松陰の実家)・吉田家(松陰の養子先)の墓や「禁門の変」で自殺した久坂玄瑞(くさがげんずい)の一族の墓、「池田屋事件」で新撰組との戦闘で死んだ吉田稔麿(よしだよしまろ)の墓、奇兵隊総督の高杉晋作の墓(遺髪墓)等、萩藩出身の維新の志士たちが眠っている。
この銅像は、吉田松陰が黒船にて密航をしょうとしているところの銅像です。
松陰生家住居跡
吉田松陰の銅像から、20m位降りた所に
吉田松陰の生家跡を見つけました。
この場所は、萩市内が一望できる場所で、屋敷跡の周りを見たら石碑だらけ・・・屋敷跡の端っこには、松陰が生まれた時に使われた井戸などもあります。
いかがでしたでしょうか?
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